未完の独自開発機”IAI LAVI”
イスラエル空軍運用機の変遷
1948年5月14日の建国直後から第一次〜第四次中東戦争を戦い抜いてきたイスラエルは1970年代後半くらいから軽量戦闘機の独自開発を考えるようになりました。周囲を敵対するアラブ諸国に囲まれ、国土も狭いイスラエルは空軍戦力の相当の優位性を確保することは極めて重要で、それまでの空軍戦力は他国からの購入が基本であり、個々の戦闘機について比較しても敵対国のそれとの性能差も限定的であったため独自開発戦闘機を意図するようになったのも当然と言えるかもしれません。
建国直後の第一次中東戦争はチェコスロバキアからアビアS199を受領。これはメッサーシュミットBf109戦闘機ベースでエンジンをダイムラー・ベンツDB605をユモ211Fに改装した機種です。他、同じくチェコスロバキアから受領したスーパーマリン・スピットファイアMk.Ⅸ、ノースアメリカンP‐51ムスタングといった機種がイスラエル空軍の中核を担いました。
その後イギリスのグロスター・ミーティア等の供与の後、1956年にはダッソー・ミステラールを受領して、フランスからの供与依存が10年程続きました。1961年〜1969年にはダッソー・ミラージュⅢ単座型(C型)72機、複座型(B型)5機を受領。ミラージュⅢは第三次中東戦争、第四次中東戦争で敵機5機以上を撃墜したエースパイロットが複数誕生するなどイスラエル空軍で成果を挙げることになりました。

1966年にはミラージュⅢに続いて”昼間地上攻撃型”ミラージュ5(単座型5J/複座型5DJ)を50機程発注しましたが、1969年にフランスのシャルル・ド・ゴール政権はオイルマネーを背景としたアラブ諸国の圧力によりミラージュ5等のイスラエルへの武器禁輸政策をとりました。
フランスからの武器禁輸措置によりA−4スカイホーク、F‐4ファントムといったアメリカからの戦闘機の購入を進める一方で、イスラエルは”ライセンス生産許可の無いミラージュのコピー戦闘機”の生産に乗り出しました。
1953年設立の航空機製造国営企業のイスラエル・エアクラフト・インダストリーズ社(現イスラエル・エアロスペース・インダストリーズ社 ”IAI”)を中心にミラージュⅢ、搭載するアター9Cエンジンをコピーしてミラージュ5に準じた”IAIネシェル”と呼称される機体を国産化しました。コピー生産に際しての技術情報はスイス技術者からの入手、イスラエル諜報機関モサドの関与もあったとされています。”IAIネシェル”は1969年9月に初飛行、1971年5月にイスラエル空軍に引き渡され、1978年の終了まで60機程生産されました。
さらにイスラエルはミラージュⅢ/5をベースにエンジンをより強力なF‐4Eファントムが搭載したゼネラル・エレクトリック製J79に換装した”クフィルC2”を開発、1975年から生産を開始しました。
軽量戦闘機独自開発へ
ミラージュのコピー生産等を進めていた傍ら、軍需品を特定国に頼る事を問題視したイスラエルは1970年代に戦闘機の独自開発に乗り出しました。旧式化したA‐4等を置き換える為の”戦闘爆撃機を自国開発する”野心的計画です。当時の周辺中東諸国にもアメリカ他西側の航空機は導入されていましたから、それと差別化する意図もあったことでしょう。開発コストが約7億5000万ドルで1機当たりの価格は700万ドルと見積もられました。その主任務は近接航空支援(CAS)と戦場航空阻止任務(BAI)、二次的には空対空戦闘についても付与するとされました。1979年にラビ計画は1980年2月に始動することが明らかにされました。
アメリカからの約20億ドルの財政援助と技術供与も取り付けられることになりました。
エンジンは当初ゼネラル・エレクトリック製F404ターボファンを搭載する計画とされていましたが、プラット&ホイットニー製(P&W)PW1120が搭載されました。PW1120はF15、F16初期型にも搭載されたP&W製F100をベースの発展型で、ドライ最大推力62.3kNでアフターバーナー時91.2kNとされました。このエンジンも自国でのライセンス生産を視野に入れていたようです。エンジンの運転試験が1982年に開始されます。
IAIで計300機を製造して1992年の就役開始を目指すとされました。
1948年の建国後数度の戦争を経験してきたイスラエルが独自開発する戦闘機に世界の注目が集まるところとなりました。

ラビの特徴と評価
同じ頃イスラエルに於いて運用が始まりつつあった軽量戦闘機のF‐16と比較してラビは小型で軽量であり、エンジンの推力はF‐16のそれより小さいものの推力重量比はわずかに低いとされました。空気取り入れ口はF‐16と同様の胴体下面にありますが、カナード翼付きの無尾翼デルタで主翼のデルタ翼の後縁に浅い角度が付いているのが特徴の一つで主翼面積は38.5m²でF‐16より38%大きくなっています。垂直尾翼はきつい後退角が付けられていて、後部胴体下にベントラルフィンが付けられています。他安定性を低減(機動性の確保)し、デジタル式フライバイワイヤを採用し飛行制御に寄与させるなど、これはF−16と同様のアプローチが取られたと言えそうです。当時テストパイロットからは旋回等の機動性、エンジン出力の充足性等について良好な評価を得ていました。
搭載機器、兵装等
コクピットについては、サイドスティック操縦桿、操縦桿とスロットルにてを置いたままの操作(HOTAS)、広視野のヘッドアップディスプレイを採用しました。ボアサイト内複数同時目標追跡の多モード・パルス・ドップラーレーダーであるエルタEL/M2035を機首に搭載しました。空対地モードについてはグラウンド・マッピング、地形回避。電子妨害ポッドも搭載可能としました。
F‐16と同様多彩な兵器の運用が可能で当時のイスラエル空軍が運用装備していたものに準じていました。ミラージュと同じくフランスDEFA社製の30mm機関砲を搭載、空対空ミサイルは赤外線誘導のラファエル社製パイソン3、空対地ミサイルとしてはラファエル社製ポップアイ、AGM−65マーベリック、他自由落下爆弾のMk.80シリーズ、IAI社製ガブリエル対艦ミサイルといったところが挙げられます。
試験飛行開始、しかしラビ計画は中止
初号機は1986年12月に初飛行、2号機は1987年3月に初飛行し、この機体は80回以上の飛行を記録、試作機は計5機製造されました。試作3号機、4号機では主翼が最終設計になり、ミッション電子機器の搭載も予定されているとされました。
しかし1987年8月末イスラエル議会はラビ計画中止を議決しました。これより前の1983年時点でラビの開発費と1機当たりの価格は当初の見積もりの倍のそれぞれ15億ドル、1550万ドルに膨れ上がり、財政支援と技術供与を行ってきたアメリカで見直されることになり、またその支援が無ければイスラエル単独での開発は不可能と判断されました。他イスラエルが独自に戦闘機を開発・量産・運用した場合、中東の軍事バランスにとって好ましくないとアメリカが判断し、圧力をかけられた結果ともされます。
ラビ開発中止の代替えとして”ピース・マーブルⅢ”と呼ばれるアメリカからイスラエルへの3回目のF‐16戦闘機売却が合意されました。F‐16C/Dブロック40の計60機(F‐16C、F‐16D各30機ずつ)が1991年8月から始まり1993年に完納されています。
5機の試作機の製造のみで頓挫してしまう結果となったラビ計画ですが、イスラエルに於いてはこの開発全般を通じて技術的に得るものも少なからずあったようです。主力戦闘機として運用されているF−16にそれが寄与していると考えられています。一つの形となって現れたのがF‐16I”スーファ”と伝える向きもあります。
他2000年代前半から中国空軍で運用開始となった殲撃10(J‐10)の開発に於いて、特にフライ・バイ・ワイヤ操縦装置や運動性向上技術機(CCV)概念といった中国が不得意とした分野についてイスラエルが技術供与をしたとの情報もありますが、両国ともこれは否定しています。

